Dec 18, 2005

The Empty House

 今日は「空家事件」の話をしようと思います。(この時点で、何の話かわかった方は、ちょっとマニアですね。)
 100年の俗評を越えてきた作品を、今また俺がこんなところで紹介することにどれだけの意味があるかは甚だ疑問ですが、これを機にひとつ手に取ってみようかと思われる方も多少はいらっしゃるのではと信じて、書いてみようと思います。興味のある方はどうぞお付き合い下さい。世界で最も有名な探偵の話です。

 言わずもがな、シャーロック・ホームズの名を一度たりも耳にした事がないという方はいらっしゃらないと存じます。昨今では「名探偵コナン」を通じて興味をもたれた方もいらっしゃることでしょう。そんなホームズ作品最大の魅力は、当然、その推理小説としての完成度の高さにあります。しかし、この点に関しては世に溢れんばかりの「分析」が存在し、かつ俺ではそれをなすには足りないので、ここではあえて別の視点、そのキャラクター性に注目してみようと思います。
 そこで取り上げるのが「The Empty House(空家事件)」です。1903年に発表されたこの作品は、短編集「THE RETURN OF SHERLOCK HOLMES(シャーロック・ホームズの生還)」に収められています。本作は、ホームズの卓越した推理劇を味わえるといったものではありません。ホームズのなす「推理」はごくわずかです。しかしこの作品以上に、ホームズとワトスン、この愛すべき二人の人物を的確・簡潔に描写したものはないのではないかと思うのです。

 モリアーティ教授とライヘンバッハの滝に落ち生死不明の状態に陥るも、三年の時を経てワトスンの前に生還してみせるシーンでは、ホームズは古書店を営むうらぶれた老人として現れます。ワトスン宅へ上がり込み、その書棚へワトスンの注意を向けさせた瞬間、そうワトスンが書棚へ首をまわしそして向きなおるその刹那に老人は姿を消し精悍な探偵が現れるのです。ニコニコと微笑みかけるホームズに、「ああ!やられたぁ!!」と読んでいるこっちは大興奮です!(ちなみにワトスンの驚きはもっと凄く、その場で卒倒しちゃいます。)
 滝壺に落ち生死不明といっても、本のタイトルが「生還」なのですし、もちろん読者は皆ホームズが生きて帰ってくることは知っています。このような予断は、意外性という点からすれば明らかに不利になる点でしょう。しかしどうして、このわずか1ページにも満たない描写で、そんな予断などものともせず我々は驚かされるのです。粋なのか嫌みなのかお茶目なのか、「シャーロック・ホームズここにあり」といったシーンです。
 目を覚ましたワトスンの喜び様といったらないですよ。『うん、とにかく幽霊じゃないようだ。』と、ホームズの身体を確認してみたり、早く生還の訳を話してくれとホームズを急かす姿は、ワトスンのかわいさとその友情の深さがよく描かれています。読んでてワトスンと一緒になって喜べる、本当にいいシーンです。
 ホームズが長く不通のままでいた訳を話すシーンでは、『この三年間、君に手紙を書こうと思って、ペンを手にしたことも何度かあったが、そのたびに、僕への愛情に君が引きずられて、秘密を露見させるような無分別をしでかしはしまいかと、心配になった。』なんてことを言ってますが、これなどホームズでなければ、そしてワトスンに対してでなければ言えない台詞でしょう。唯一無二の友人ワトスンに対するホームズの友情と、それと相克する冷静さ、加えていつもの嫌みっぷりがよく伝わってきます。
 また、犯人を捕らえるためにホームズは自らに似した鑞(ろう)人形を部屋に仕掛けるのですが、ワトスンは窓に写るその影を外から見つけた時、「驚きのあまり、手を伸ばして、本物が傍に立っているかどうか確かめてみた」りしてます。そしてそんなワトスンを見て、ホームズは「身を震わさんばかりにして、笑いをこらえている」のです。もう、眼前でコントが繰り広げられたかのように、リアルに状況が伝わってきます。二人のやりとりとはいつも終始こんな感じであって、本当に仲の良い二人です。

 以上、俺の拙い文章ではとても伝えきれるものではないのですが、本作の魅力を少しばかりですが伝えてみました。他にも本作では、ホームズの高慢さや気忙しい様、またワトスンの冒険に対する好奇心の強さなどもよくよく描かれています。
 先にも述べた通り、この程度の予断ではものともしない存在感で迫ってきますので、よかったら文庫本を手に取ってみて下さい。なお、「最後の事件」だけは事前に読まれておいた方が、より本作を楽しめるかと思います。

(*)引用は、コナン・ドイル著、阿部知二訳「シャーロック・ホームズの生還」(創元推理文庫)より。

Oct 4, 2005

金言

 何か大事なことを決めようと思ったときはね、まず最初はどうでもいいようなところから始めた方がいい。誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいなところから始めるんだ。そしてその馬鹿みたいなところにたっぷりと時間をかけるんだ。
 成功するか失敗するかということに話を絞れば、俺はただの一度も失敗しなかった。それは、俺がそのコツのようなものを実践してきたからだよ。他のみんなは誰が見てもわかるような馬鹿みたいなところは簡単にすっ飛ばして、少しでも早く先に行こうとする。でも俺はそうじゃない。馬鹿みたいなところにいちばん長く時間をかける。そういうところに長く時間をかければかけるほど、あとがうまく行くことがわかってるからさ。

村上春樹 「ねじまき鳥クロニクル」


 簡単なことほど馬鹿にして基礎をやらないものだが簡単なことほど基礎を固めなければいけないことは世の中の常識なのである。
林輝太郎 「財産づくりの株式投資」

 そういうことです。皆承知のことだと思います。ですが、活字をさらりと読み「うむ。」と納得するのと、そこからいざこれを実践するのとでは大きな隔たりがありますね。こんなことを書いていると、何が「正しい」のかがわからず、もがいてばかりで前に進めない時には、とりあえず言い古された格言、あたりまえ過ぎる真実に従ってとりあえず進んでみるというのも、ひとつの実際的な生き方なのだなと思いました。

Sep 16, 2005

確信

 海辺のカフカを携えて東北の旅に出たのですが、結局200ページ程しか読めなかったので、帰宅後一気に読みました。上下巻で1000ページを超えるなかなかの大作なのですが、中だるみなく読み終えることができました。言い換えれば、どこということなく話は淡々と進行し、小さな波に揺られ続けているうちにその場所に辿り着いたという印象です。ただ、構成が独特で、映画のようなシーンチェンジが用いられているので、飽きることなど全くなく読みきってしまいました。
 そんな訳で、作品全体を通じてうまく波に乗れるか否かが決め手だと思うので、殊更にココという箇所は少ないのですが、それでもゆっくり揺られながら自然 と田村カフカに自らを重ね合わせていると、ごくごく個人的にですが、改めて考えさせられたコトバがありました。

 君がやらなくちゃならないのは、たぶん君の中にある恐怖と怒りを乗り越えていくことだ。そこに明るい光を入れ、君の心の冷えた部分を溶かしていくことだ。それがほんとうにタフになるということなんだ。
 彼女は君のことをとても深く愛していた。君はまずそれを信じなくてはならない。それが出発点になる。
村上春樹 「海辺のカフカ」

 思わず、「わかってる!」と怒声をあげそうになりました。そう、そうなんです。わかってます、もう嫌という程考えてきたので、頭では十分に。俺は確かに愛されていたし、愛されている。よくよく知っている。そして、やはり、ここから始めなければならない、この大きな事実を確かに信じなければ。

   いつも傍にいることはできない、でも、ずっといるよ

 頼りない俺にわざわざのコトバ、温かいコトバありがとう。つくづく思う、ひょっとして俺はけっこう幸せな人間の部類に入るんではないかと。。大丈夫、「確信」はそう遠くない。ほんまいい加減、ほんとうにタフになりたいと思うから。

Aug 27, 2005

特性

 鼠の好物は焼きたてのホット・ケーキである。彼はそれを深い皿に何枚か重ね、ナイフできちんと4つに切り、その上にコカ・コーラを1瓶注ぎかける。
 僕が初めて鼠の家を訪れた時、彼は5月のやわらかな日ざしの下にテーブルを持ち出して、その不気味な食物を胃の中に流しこんでいる最中だった。

 「この食い物の優れた点は、」と鼠は僕に言った。「食事と飲み物が一体化していることだ。」

村上春樹 「風の歌を聴け」

 これ、、、笑えません?
 夜部屋で一人本を読んでいるときに、こんなに、声を出して笑ったのは久しぶりです。何がおもろい?と訊かれても困るのですが、なんかおもろい。
 あぁ、笑った笑った。

Aug 24, 2005

スプートニクの恋人

久しぶりに、読み終わってズシリとくる作品だった。その中でも、個人的にガツンときた部分を、少し長いですが引いてみます。
ぼくはうまく呼吸ができなくなるほどの、激しい悪寒に襲われた。よくわからないところで、誰かがぼくの細胞を並べ替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。考えている余裕はなかった。ぼくにできるのは、いつもの避難場所に急いで逃げこむことだった。ぼくは息を思いきり吸いこみ、そのまま意識の海の底に沈んだ。両手で重い水をかいて一気に下降し、そこにある大きな石に両腕でしがみついた。侵入者をおどすように水が鼓膜を重く押した。ぼくはしっかりと目を閉じ、息をつめ、それに耐えた。一度心を決めてしまえばむずかしいことではない。水圧にも、空気のないことにも、寒々しい薄闇にも、混沌の繰りだす信号にも、すぐに馴れてしまう。それはぼくが子供の頃から何度となく繰り返し、習熟している行為だった。
ここを読んだ瞬間、思わず本を置いてしまいました。俺は、小さい頃から凄まじく打算的なやつで、その時々の己の算段こそが俺にとって最良の選択であり、それのみが俺を正しい方向に導けると考えていました。そして、幸か不幸か結果としても、当時取り巻いていた小さな世界においては、万事(といっていい程)うまく行きました。「小利口」という日本語を知らなかった頃の話です。

そんな誤解と錯覚も、20歳も近付くにつれ“ようやく”崩れ始めましたが、、遅すぎました。物心ついた時から己の過敏さに困惑し、なんとかそれに対処すべき築き上げてきた自己を崩すには、俺にとっては20歳という年齢はいささか遅かったのです。自己が瓦解していく中、俺は持てるものを総動員して抵抗しました。それこそ、本書冒頭にあるように「行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒す」かのように。

しかし、当然ですが、俺は敢え無く敗退しました。それでも傍に居てくれた優しい奴らを、片っ端になぎ倒したにもかかわらず。

そこから、なんとか、立ち直る際に思うことがありました。「理性などクソクラエ!」なにかにつけて、わかった風に自分で真実を仕立てるのが嫌だったのです。ガラスの脆さはごめんだった。「過敏な感受性おおいに結構!どんとこい!」という人間になりたかった。

俺も上記引用部分の最初のくだりにあるようなことをしばしば感じるのですが、そんな時は極力抗わないようにしていました。悪寒と感じるコレってなんだろう、、おおつれぇ。うまく立ってられなくなってきた、、やべぇやべぇ。・・・なんかこう書くとただのアホなマゾですが、まぁそんな風に今の自分がワカラナイものを閉め出したくなかったのです。でも、作中の「ぼく」は違いました。もちろん作中の状況はこうすべきものでしたが、それ以上に「ぼく」がこの処世術自体を肯定していることに衝撃を受けました。なんていうか、読み進めてきた中少なからずこの「ぼく」に賛同していたところに、俺が精一杯否定しようとしてきたものが肯定されてしまい、そして、読んでいる俺も肯定してしまっていたので、ちょっと困った。

俺は、柔らかくなることで、真に強くなりたかった。そう思ってやってきたけど、、、なんか俺は勘違いしてるのかも。ただただガキっぽく、アンチテーゼ掲げているだけではないのか。なんてことが過り、しばしストップしました。せっかくなので、ゆっくり考えてみようと思います。

他にも本書には重くのしかかってくる部分が多く、読んでいてなかなか大変でした。「孤独」についてこんな記述もありました。
どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
なんか、いい書き方だなぁと思いました。「孤独」については俺も思うところあるのですが、それはまた今度にします。

ラストは、4ページたらずで半ば強引に、ハッピーエンドに持っていかれ少々ビックリしたけど、後半の重々しい内容の中ではこの軽い結びがかえって清涼感をもたらしていて、ほっこりできました。

引用は、村上春樹 「スプートニクの恋人」(講談社文庫)より

Aug 5, 2005

羞恥心

 満足しているということは、それだけで、悪い。飢えている者に対して、ごめんなさいと心の中で呟かなければならない。
 もちろん、そんなことを直接、口にするわけではない。口にしたとたんに、それは偽善になる。
 ・・・善いことをする場合、最後まで善いことを全うする唯一の方法が、匿名だろう。
 善いことをするのは難しい。人の目を意識したとたんに、それは偽善になる。
 善いことをするときは、隠れてしなければならない。内緒でしなければならない。他人にばれてはならない。誇らしげに善いことをしてはならない。
 万が一、善いことをしたのがばれてしまったら、恥ずかしそうにうつむいてその場を逃げだすしかない。
 だいたい人目を意識して善いことをするなんて、じつに格好悪い。
 満員電車でこれ見よがしに老人に席を譲るくらいなら、そのままふんぞりかえっているほうがましだ。得意そうに席を立つ。そのデリカシーのなさは絶望的だ。
花村萬月 「猫の息子 -眠り猫II-」

 ははは、笑えますね。小説の中の台詞ですから、もちろん極論です。しかし、極論だからこそ、真実そのものだと思いました。やはり、自慰とは秘めやかな行為であるべきで、貧乏くさい行為は何より慎むべきだと思います。
 こういう考えは潔癖に過ぎ、絶望的な破綻を内包しているようで怖くなるのですが、それでもやはり真実というものを追求すると潔癖になりがちです。これは俺が青いだけでしょうか。それとも単なるマゾヒズムでしょうか。さて。