Aug 24, 2005

スプートニクの恋人

久しぶりに、読み終わってズシリとくる作品だった。その中でも、個人的にガツンときた部分を、少し長いですが引いてみます。
ぼくはうまく呼吸ができなくなるほどの、激しい悪寒に襲われた。よくわからないところで、誰かがぼくの細胞を並べ替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。考えている余裕はなかった。ぼくにできるのは、いつもの避難場所に急いで逃げこむことだった。ぼくは息を思いきり吸いこみ、そのまま意識の海の底に沈んだ。両手で重い水をかいて一気に下降し、そこにある大きな石に両腕でしがみついた。侵入者をおどすように水が鼓膜を重く押した。ぼくはしっかりと目を閉じ、息をつめ、それに耐えた。一度心を決めてしまえばむずかしいことではない。水圧にも、空気のないことにも、寒々しい薄闇にも、混沌の繰りだす信号にも、すぐに馴れてしまう。それはぼくが子供の頃から何度となく繰り返し、習熟している行為だった。
ここを読んだ瞬間、思わず本を置いてしまいました。俺は、小さい頃から凄まじく打算的なやつで、その時々の己の算段こそが俺にとって最良の選択であり、それのみが俺を正しい方向に導けると考えていました。そして、幸か不幸か結果としても、当時取り巻いていた小さな世界においては、万事(といっていい程)うまく行きました。「小利口」という日本語を知らなかった頃の話です。

そんな誤解と錯覚も、20歳も近付くにつれ“ようやく”崩れ始めましたが、、遅すぎました。物心ついた時から己の過敏さに困惑し、なんとかそれに対処すべき築き上げてきた自己を崩すには、俺にとっては20歳という年齢はいささか遅かったのです。自己が瓦解していく中、俺は持てるものを総動員して抵抗しました。それこそ、本書冒頭にあるように「行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒す」かのように。

しかし、当然ですが、俺は敢え無く敗退しました。それでも傍に居てくれた優しい奴らを、片っ端になぎ倒したにもかかわらず。

そこから、なんとか、立ち直る際に思うことがありました。「理性などクソクラエ!」なにかにつけて、わかった風に自分で真実を仕立てるのが嫌だったのです。ガラスの脆さはごめんだった。「過敏な感受性おおいに結構!どんとこい!」という人間になりたかった。

俺も上記引用部分の最初のくだりにあるようなことをしばしば感じるのですが、そんな時は極力抗わないようにしていました。悪寒と感じるコレってなんだろう、、おおつれぇ。うまく立ってられなくなってきた、、やべぇやべぇ。・・・なんかこう書くとただのアホなマゾですが、まぁそんな風に今の自分がワカラナイものを閉め出したくなかったのです。でも、作中の「ぼく」は違いました。もちろん作中の状況はこうすべきものでしたが、それ以上に「ぼく」がこの処世術自体を肯定していることに衝撃を受けました。なんていうか、読み進めてきた中少なからずこの「ぼく」に賛同していたところに、俺が精一杯否定しようとしてきたものが肯定されてしまい、そして、読んでいる俺も肯定してしまっていたので、ちょっと困った。

俺は、柔らかくなることで、真に強くなりたかった。そう思ってやってきたけど、、、なんか俺は勘違いしてるのかも。ただただガキっぽく、アンチテーゼ掲げているだけではないのか。なんてことが過り、しばしストップしました。せっかくなので、ゆっくり考えてみようと思います。

他にも本書には重くのしかかってくる部分が多く、読んでいてなかなか大変でした。「孤独」についてこんな記述もありました。
どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。
なんか、いい書き方だなぁと思いました。「孤独」については俺も思うところあるのですが、それはまた今度にします。

ラストは、4ページたらずで半ば強引に、ハッピーエンドに持っていかれ少々ビックリしたけど、後半の重々しい内容の中ではこの軽い結びがかえって清涼感をもたらしていて、ほっこりできました。

引用は、村上春樹 「スプートニクの恋人」(講談社文庫)より

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