Dec 13, 2006

専門語でデートと呼ばれているものをしたのです

 いえいえ、私の話ではありません。かのエラリー・クイーンさんの話です。

 いや、じつは、ぼくは≪島≫で、もっともかわいらしい、もっとも金持ちの、もっとも好ましい、このうえなく血統正しい若い女性と、専門語でデートと呼ばれているものをしたのです。
エラリー・クリーン 「中途の家」

 井上勇さんという方の訳だそうだが原文はいったいどんな感じなんだろう!気になって眠れず、これを書いてます。
 にしてもデート!しばらくそんなものしてない気がしてきた。やばいなぁ、一人で「ブロッコリー穫れたぞ〜」なんて喜んでるとデートもできやしない。ふむ、、、考えもんだ。考えとこう。

Oct 27, 2006

 新庄剛志は夢を探すのか。
 俺もずっと探してるけど、見つけられないまま結構な時間が過ぎてしまっている。やりたくない事ならいっぱいあるのになあ。逃げる事とか、裏切る事とか。ね。
 農業をやることに決めた今でも心底の自信はない。この選択は本当に逃げてないのか。でも、逃げたわけではない、100%ポジティブでアグレッシブな選択だったと思ってやってくしかない。
 もう逃げたくないから。
 だから、これからも逃げずに夢を探していこうと思う。

 もう随分前から新庄剛志のファンで、彼の言う事なす事全てを肯定できるくらいにまさにファンだから、突然「夢を探すんだ」なんて言う彼の顔をじっと見てたら、なんだかいろいろ思いました。

Oct 1, 2006

農業はじめました

 27年間とちょっと生きてきましたが、ようやく「しっくり」くるものと出会えました。しかも、意外にも刺激的でもあります。それが農業でした。なのでこれを生業として生きていくことにしました。

 以前どっかのなにかで、同年代くらいの人たちがこんなようなことを言ってました。
「僕らの世代はモノに満たされ何不自由なく育ったので、物質的豊かさへの渇望は乏しく、それだけでは生きていくモチベーションとはなり得ない。必要なのは精神的豊かさであり、いかに生きるかである。」
  これだと、生きるという行為のモチベーションがその過程の充実にかかることになり、いわば行為自体が行為の目的と化してしまっており、何ら生み出されるも のはなく自慰的な人生ともいえる。しかし、今この文章を書いている自らの生をおいそれと否定するわけにもいかない以上、やはり「生きる」ことありきで話を 始めなければならない。
 正直、このような話は一人の人間として非常に申し訳なく恥ずかしく思うので、こんな人生でも結果として何かほんの少しで も社会に世界に有益なものをもたらせたらなと願うばかりである。しかし、情けないことだが、「結果として」としか言えないのが現状である。でもまぁ、真実 というのは移ろうものなので、ある日また理想に燃え世界を変えんと猛進する日もやって来るような気がする。

 ま、とにかく農業です。こりゃいい。

Sep 5, 2006

想い出はいつも美しい

人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから
村上春樹 「使いみちのない風景」

 素晴らしき想い出ってありますよね。そう、決して戻ってくることのない人、時間、空間、そういうもの。「もはや未練などない」と一生懸命思ったり、「すっかり忘れてる」状態なのに、ふと、唐突に現れるあの人、あの時、あの場所。それらはいつも美しい。美しすぎて困ることだってままある。しかし、それもまた素晴らしい。
 こういうのを幸せとは言わないのだろうが、素晴らしいんだから悪いことではないのだろう。

Jul 26, 2006

Good Bye my SCUDELIA ELECTRO

 そっか、解散したんや。

 遅ればせながら、「live: locus. and wonders.」を購入し、ようやく俺もラストライブに参加することができた。
 とりあえず再生。用事をしながら、流しながら、ニコニコ聴いていた。なんとなく過ぎたライブも佳境、そうそう小吉がMCで「後半戦あと残り少ないが、盛り上がってくれ」と言った頃だ、何故か手を止め灯りを消して「ちゃんと」ライブに参加し出した。
 Good Bye Nautilus、ミラージュ、CRY、Moonbaseと、怒濤のようにScudelia Electroがこの部屋を駆け回り、俺はすっかりライブハウスに立っていた。『よっしゃこれからいくで!』という気満々の中なのに、Better Daysで結ばれた。その強制的な終局は、悔しかった。『なぁ今から、、、だろ?』と未練が溢れてきた。だが、これが終局だということに何の疑問もなかった。このBetter DaysはScudelia Electroそのものだった。楽しさ、切なさ、そして過剰なまでの美しさが、それこそ「完璧」に存在していた。

 知ってるよ、このライブはあと2曲なんやろ
 どうぞ、やってくれ

 Truthにはさすがに苦笑いを禁じ得なかった。いささかの嫌悪感すらあった。用意された終局、流れるのは完璧な鎮魂歌。

 そうだな、終わろう
 あぁ、終わってくれ

 小吉は「あと1曲な」といって、サマーレインを始めた。サマーレイン、そうか、サマーレインか。鬱屈しかけた心に完璧な癒しがもたらされた。『あぁ、くそ、気分いいよ!ああいいさ!』もう笑うしかなかった。そして、泣いた。笑っていたはずなのに、気付けば閉じた瞼の隙間からこぼれてきた。この瞬間に「理解」した。

 そうか、なるほど、SCUDELIA ELECTROは解散したんやな。


Jul 14, 2006

夢はアッチにおいといて

 嫌な夢を見たの、と私は言う。彼は暗闇の中でゆっくり首を振る。それはただの夢だよ、と彼は言う。夢は過去からくるものなんだ。未来から来るものじゃない。それは君を束縛したりしない。君が夢を束縛しているんだ。わかるかい?
村上春樹 「氷男」


 俺はわりと夢見が激しい方で、自ら見る夢のせいで目覚めては「ぐったり」ということがままあります。しかも悲しいかな「嫌な夢」の方が圧倒的に多く、もう夢精しちゃうよ♪って夢を見たのは一体いつのことだろう。

 彼(氷男)によると、こんな俺の夢を束縛しているのは俺自身のようだ。う〜ん、コッチの俺がしたことが、アッチの俺を束縛するのか、、、う〜ん、どうなんだろう。今これを書いているコッチの俺としては、アッチの俺を支配するのはコッチの俺だと思いたいような気もするが、ちょっとアッチの俺に申し訳ない気もするし、おこがましくもある。もしかしたら、全然関係ない隣のななちゃんが束縛しているかもしれないし。まぁ何かしら関係はあるとは思うが、誰のせいかはちょっと解らないのでこの際おいておこう。

 さてさて、俺の夢を俺自身がもたらしてようと、隣のななちゃんがもたらしてようと、そんなことはどうでもよく、大事なのは、いかなる夢も過去からくるものにすぎず未来には何ら関わりのないものだということ。
 いちいち夢ぐらいで反応せず、「あぁ、アッチの俺は苦労してるんだなぁ」くらいで済ましておかないと、解らない誰かのせいでコッチの俺まで束縛されてしまうことになりかねない。それは困る。
 ま、要は、少なくともアッチの世界ではなくコッチの世界にいる俺としては、アッチの世界のことは「夢」としておいといて、コッチを「現実」としてしっかり生きねばならないな、とか思った訳です。おわり。

Jun 8, 2006

タバコは3つ、ジュースは1本

 ソフトウェア開発者の端くれとして、今日はユーザーインターフェイスというものについて少し。
 こちらにWebアプリのUI(User Interface)について書かれた記事があります。特別目新しい内容ではないのですが、UIに関して留意すべきポイントが改めて文章にされているので、なかなか参考になりました。以下この記事からピックアップして書いていきます。

 今やWebサイトでユーザー登録をしたことがないという方は少ないかと思いますが、この登録の際にはe-mailアドレスの入力を求められることがよくあります。そして、このフィールドは必ずといっていい程確認のために再度の入力を要求します。しかし、この要求は「なんとかして、ユーザー登録をしてもらう」という大目的を考えると、かなり不合理な点があるという指摘がなされています。
 登録を求める側から考えると、
   1.作業を手軽なものにして登録を促す
   2.登録者の正確な情報を取得する
 という二つの目的があります。しかし、言うまでもなく二度も入力を要求することは1.の目的にはそぐいません。では2.の目的を重視したものとしては合理的かというと、そうとも言えないというのがこの記事の指摘です。というのは、

 ユーザーの行動を観察すると、非常に多くの場合、ユーザーは一つ目に入力した内容をコピーして二つ目にペーストしています

 よって、二つのフィールドを用意するということは、正確な情報を取得するという2.の目的を何ら担保していないのです。これでは1.の目的を阻害するだけで何らのメリットもないのです。
 仮に大多数以外の希有な方がアドレスを二度タイプしてくれたとしても、二度の正確なタイピングを要求することは、2.の目的実現のメリットよりも1.の目的を阻害するデメリットの方が大きいといえるのです。つまり、その希有な方自体、タイプミスにより二つのアドレスが異なって再度の入力を求められても諦めずに登録作業を続けてくれるかどうかはかなり不確定であるのに、この希有で不確定な事態に対応せんがために大多数の方々に対する1.の目的を阻害するのはあまりにもデメリットの方が大きすぎるということです。

 これは何もPCの世界だけに限らず、身近な自販機でも見受けられると指摘されています。

 多くのジュースの自動販売機では、1000円札を入れた場合に、ボタンを押して商品を1つ購入すると「続けて購入モード」に入ってしまうので、いちいち釣り銭レバーを押さないといけません。しかし(おそらく)ほとんどのケースでは、ユーザーは一度に1本しかジュースを購入しないのです。つまり釣り銭レバーを押すという余計な操作が膨大な回数行われていることになります。

 ふむふむ。自販機設置者の意図として、この「続けて購入モード」に入るのはさらなる購入を促しているからだとしたら、決して促せてはいない。では、二本買うかもと購入者の便宜を図っているからだとしたら、一本しか買わないので邪魔と感じる人が大多数ということです。
 さらに考えると、タバコの自販機の場合はちょっと違って、小銭300円ではなく1000円札を入れた場合は、かなりの確率で三つ買うのではないだろうか。その辺を気にしてか、タバコの自販機は5秒だけ「続けて購入モード」が用意されているものが多い気がする。一つ買って5秒くらい何もしなければおつりが出てくるやつ。

 これらの事を一般論として、「エッジケースを過大視しない」とまとめています。

 プログラミング作業では、主要な使用方法に対する処理の作り込みと同じかそれ以上に、特殊な使い方をされた場合の処理の作り込みに時間をかけますが、ユーザーインターフェイスの設計では、一般的な使用状況に最適化した表現に気を使うべきです。プログラマーはエッジケースを重視しますが、インタラクションデザイナーはコモンケースを重視すべきなのです。起こりそうもない場合を考慮し過ぎて、起こるべきことの利便性を低下させてはいけません。

 そうそう。これ共感される開発者多いんじゃないでしょうか。UIの設計とはまさに利用する人を想像すること。この「想像」することの重要性は、何もアプリケーション開発に限られるものではなく、ビジネスのあらゆる分野で根底をなす最重要作業ではないでしょうか。
 明日はわからない、他人(顧客のニーズ)もわからない、時々自らのこともわからない中で、想像することこそが最良の、特に「持たざる経営者」にとっては唯一のリスクヘッジではないでしょうか。「何をいまさら、やってるよ」ではなく、これだけ二つのe-mailアドレス入力フィールドが用意されている世の中、実は我が身もと思いなおしてみるのがよいかもしれません。

(*)引用は、@IT 上野学「多くのユーザーは一度に1本しかジュースを買わない」より。

Apr 14, 2006

テクノロジーの描く未来

 先日WBSに梅田望夫さんが出演なさっていたのをきっかけに、話題の「ウェブ進化論」を読んでみました。これからの人生を変えかねない程の衝撃を受けたので、少し詳しく書いてみます。感想は、ずばり「テクノロジーは再び明るい未来を描くかもしれない」です。

 昨今は、社会は閉塞感で満ち満ちもの凄く生きにくい時代だと言われます。なにせとかく「暗い」。夢や希望という、人生の指標として多いに用いるべき概念が絶対的に抱きにくくなっている。今の子達は大変だなぁとちと不憫に思います。
 大阪万博、東京オリンピックに象徴される高度成長期といえば、「明日は今日よりもっといい」という夢と希望に溢れた時代と語られますが、その高度成長期と現在との最たる相違点は、科学そして具体的なテクノロジーが持つチカラだと思う。当時のテクノロジーは常に明るい未来を想像させる力をもっていたのに対し、現在のテクノロジーにそのような力は皆無で、あるのは過大な商業主義から漂う強烈な臭気だけである。パイの奪い合いに疲弊しては、あるはずもないウォンツを無理矢理創出して「隣人はニーズを感じていますよ」と吹聴する。自動車、住宅、PCと枚挙に暇はありませんが、中でもやはり最たるものはケータイ業界でしょうか。ひどすぎます。
 かような「大衆=衆愚」という認識が垣間見える手法は、いかにも権力的で、吐きけをもよおします。現代の物質的に成熟した社会では致し方ないのかもしれないが、もう少しでも洗練されたマーケティング手法はないものなのだろうか。

 お察し頂けるかもしれませんが、いかにも俺はペシミストでして、まぁいい年なんで全てを「社会」のせいにはできませんが、それでも幾分かの影響を受けてぼんやり生きていました。しかし違った!本書が教えてくれました。テクノロジーは再び明るい未来を描くかもしれない。
 筆者は、アメリカ同時多発テロ発生後の憂鬱な時期に、グーグルから勇気と元気の源を与えられたそうですが、俺も本書からこれから先生きていく元気の源を与えてもらいました。表紙にもうたわれていますが、まさに本書自身が「オプティミズムと果敢な行動主義」に満ちています。

 たまたま本書と同時期に、村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読みました。そこでは、個の滅却によってもたらされた絶対安息の「世界の終わり」をアンチテーゼとして描きながら「個」の尊さを伝えていました。
 僕は昔やっていたのと同じように影をひきずり、悩んだり苦しんだりしながら年老いて、そして死んでいく。たぶん僕にはそういう世界の方があっているんだろうと思う。心にふりまわされたりひきずられたりしながら生きていくんだ。
 本書はそんな「個」について、米ニューヨーカー誌のコラムニスト、ジェームズ・スロウィッキーの著書『Wisdom of Crowds(群衆の叡智)』を紹介して、
 「個」が十分に分散していて、しかも多様性と独立性が担保されているとき、そんな無数の「個」の意見を集約するシステムがうまくできれば、集団としての価値判断のほうが(優れているとされる「専門家」より)正しくなる可能性がある。
と述べています。そして、そんな
 不特定多数無限大の良質な部分にテクノロジーを組み合わせることで、その混沌をいい方向へ変えていけるはず
であり、
 私たちはそれを考えていかなければならない
と結んでいます。

 無論両書を結びつけるのは単なるこじつけですが、偶然にも「個」の尊さを再認識していた時にその理念を実現する具体策を提示してもらったような気がして、すっかり幸せな気分になれました。これは夢でも理想でもない、単なるコトバではない具体的なテクノロジーはかの明るい未来を描いているのだ。

 最後に、グーグルは2004年8月の株式公開に際してこう言ったそうです。

Making the world a better place

そうじゃないかもしれない。でも、そんな未来を俺も描いていこうと思う。

Apr 7, 2006

Why don't you live with Mac ?

 基本的に時事ネタは避けてきたのですが、今回はちょっとそうも言ってられない程ドラスティックな変革を予感させるものなので、禁を破ります。そう、"Boot Camp"です。
 本当にいいタイミングだと思いました。1. Vistaの延期、2. Intelスイッチ後も大きな問題なくOS Xがあり続けていること、3. XOMの振りまいた話題性が冷めていないこと、とかとか。
 1. Vistaの遅れはそのままXPの延命を意味する以上、XPの動くMacとはなんとも魅力的だ。ここは多言を要しない。2.「Intelでも問題ないんだってぇ」の今、ちゃんとMacたり得ることは判った。では次は。てか、「Intelになったからってなんなの?」という疑問に対して、抽象的なビジョンの提示だけでは弱い。また今感じられる処理速度の向上も、"4x FASTER"など所詮数字に過ぎず、それのみで払拭しうるものではなかった。皆やっぱり「なるほどIntel」という与し易い答を求めていたのだが、そこに「IntelになったからWinが動きます」とはあまりにも明快だ。明快すぎるくらいだ。3. その期待の象徴がXOMであった。未完全ながらもちゃんとMacでWinを動かせてみせたXOMは、夢を現実の世界に引っ張ってくるものとして十分なインパクトであった。"Boot Camp"は、アッチからコッチの世界にやってきたまだカタチの定まらぬ夢をあっさり具現化してしまった。素晴らしい。

 Winにも提供したからこそiPodは成功しました。独自規格での囲い込みなどという古くさい手法は今のAppleには似つかわしくない。そんなのはSonyがいつまでもやってればいいのです。今日も皆がWinを使っていて、おそらく明日も必要だという厳然たる事実を受け入れた上で、Macという素晴らしいPCもありますと提案すればよい。それが賢く、そして、美しい。

 現在、PCとはなんだろう。情報ツールでありコミューニケーションツールであるのに加えて、アート、ビジネス、エンタメ等々に利用され、完全に現代の生活にとけ込んだ耐久消費財となっている。そのようなPCも、今では5万くらいで買えるものもあるが、もう十分安いんじゃないだろうか。
 LOHASという言葉が使われ出してしばらくたちましたが、(相対的に)Winに対してのMacは十分LOHASであるような気がします。単にWebサイト一つとってみても、Macで見るそれはなんと「優しい」印象を受けることか。ディスプレイに表示される文字一つが、とても柔らかく読み易い。様々なソフト・ファイル、ウィンドウの操作も、Macだと何だか「楽しい」ものです。さらには事務作業だって、ExcelはMicrosoftの代表作であるのに、どうしてこれがMac版の方が使い易く、「よりExcelらしい」と感じてしまうのは俺だけではないはず。
 LOHASというコトバはどうあれ、昨今人々のライフスタイル、金銭観は確実に変化してきていると思います。それは景気が上向いてきているのもありますが、それ以上に閉塞した社会の副産物ではないでしょうか。まぁ何にせよ、確かに抽象的な「5万円」という金額自体は(少なくとも俺にとっては)ちっとも安くはない。財布に入っていることも少ない、かなりの大金だ。しかし、上記の通り限りなく必需品と化したPCは、それがいいものであるなら、別に5万円じゃなくてもいいんじゃないだろうか。別にそれが10万円であっても、あと5万円で豊かさが買えると思えば納得できるものではないだろうか。で、少々下衆な計算をすると、mac miniの75,000円にWinXPを買っても10万円は越えない訳で、もうこれぐらいでいいんじゃないのという気がします。 ハンバーガーは100円でなくてもいいし、牛丼も300円じゃなくてもいい。それよかもう少し旨い方がいい。PCだって、より心地いいタオヤカな生活をもたらすなら5万円じゃなくていい。

 「もうみんなMacを買えばいいと思う」というタイトルのこの記事は、最後にこう結んでます。

いよいよMacを選ばない理由が見当たらなくなってきた

Feb 21, 2006

春風のようにたおやかな人

 今しがた夕食の際に、録画しておいた1月7日放送の「美の巨人たち」を観たのですが、福田平八郎のとても味わい深い言葉がありましたので、ここで紹介しておきます。

駄目だ
到底人間の力では
自然のあらゆる部分など
見極め得るものでは
ありはしない
ぼんやりとした
分からない部分もあるのが
それが本当の人間の見た
自然のはずだ

すべて見えていると
思い上がった僭越な態度を
先ず改めなければいけない

私は素直になろう

     〜福田平八郎〜

Feb 13, 2006

相場のハナシ (参)

 相場に関して最たる真実であると思うので、何度も言いますが、
相場はわからない
のです。相場が相場たりうるのは、「わからない」からです。強いとわかるなら、誰も売らないので誰も買えない。弱いとわかるなら、誰も買わないので誰も売れない。(ストップ安比例配分が続いてたLDの状態。でも比例配分があるということは、誰かは弱いと思っていない。)でも、通常は刻々と売買は成立しています。これつまり、わからないもんだからその瞬間瞬間における銘々の考えが異なってきているからに他なりません。
 今ではリアルタイム株価といって、個人でも刻々と変化していく株価を見ることができますが、そこに表示されている値は1秒前の過去ものでして、1秒後の今の株価が上か下かなどはやっぱりわからないのです。だから、「俺だけはわかる!」なんて、口に出すのはおろかこっそり思ってるだけでもかなり恥ずいことなのです。分割せずに一発ドカンと張るのは、実は「俺だけはわかった!」って暗に思っているのです。その方法は相場では割が悪いので、一発必中でいくなら競馬の方がよほどいいです。相場には、万馬券のように利益率10000%などありませんから。

 この「わからない」という真実は、その判断対象とするスパンが短いほど大きくなると思われます。どんな凄まじい「下げ相場」の真っ只中であっても、上がる瞬間はある。だが、そんなもの捉えられるわけがない。しかし、前者の「下げ相場」という言葉は、わからないことだらけの相場を語る言葉の中でも、かなりの確実性をもって使われる言葉であり、実際にその蓋然性は高いものであります。そのスパンが3ヶ月なのか半年なのかはいろいろですが、いずれにしても今日や明日などではないことは確かです。ここに最も易しい相場のヤリ方があるように思います。このかなり確実性の高い波に乗ればいいのです。「下げ相場」だとの判断だけに注力し、よし!と売り建てたら、しばらく放っておけばいいのです。
 「下げ相場」だとの判断ができなくて、迷っている間に天井らしかったところからもう100円も下げてしまった( ̄O ̄;) それでもいいのです、売りましょう。そしてひと月も経てば、何度も何度も見てきたチャートと同じように、今回もその大きなうねりが形成されつつあるはずです。気づけば、少し利益も出ていますからドキドキしてきて、さらにはそれが負担にもなってきますヾ(;´▽`A`` そうこうしているうちに、底らしき形がチャートに現れすでにそこから50円も上がってしまっている( ̄O ̄;) やっと楽になれる時です、買いましょう。これで300円幅のうちの150円が取れるのです。こんなの成功じゃないというのは、欲張りすぎです。これができて、「やった♪」と言えないと、いつまでも理想だけが先行してしまい、ちっとも上手くならないものです。
 だから、極論すれば、銘柄なんてなんでもいいんです。ただ、2年分くらいの日足を見たときに、こういう長期的な「下げ(上げ)相場」だと断言できる形がよく現れている銘柄であれば。
 もともと、真暗闇の中の岐路で右か左どちらかに歩めと言われているのです。勘でも1/2で当たりますよ。でもやっぱそれは怖いじゃないですか。だから、薄明かりでも長期的な「○○相場」というトレンドを利用して、かつそんな決断の回数は少ない方がいいに決まってるので小さなうねりまで細かく取ろうとせずに、やってみようという話です。

 もちろん相場の世界は奥深く、いろんなヤリ方があります。俺がここで書いてきた方法も、そのうちの一つでしかありません。世の中にはわからない値動きをジッと睨みつけながらもしっかり利益を上げる強者もいらっしゃいます。ただ俺は、上記方法がおそらく最も簡単かつ時間的制約が少ないのではないかと思うので実践しています。平日の日中には、他にやる事・やりたい事が山ほどあるもんでしょう。

 長々書きました。話をわかり易くするために、かなり単純化かつ絞って書きましたが、およそこんな感じです。このような内容でも、どなた様かの何かしらの参考になれば幸いです。変な業界用語は辞書を引いてみて下さい。
 相場は習うより慣れろなので、難しいことをいろいろ考えるより、とりあえず出てみるに限ります。しょせん上か下かしかないのですから、出鱈目に出たって1/2で儲かりますから(⌒▽⌒)
 ちなみに、現在俺は双日(2768)を(1-,1-,1-)の三分割で売り建てています。これは今年に入ってチャートを見る度に、『双日は1月5日以降ぐぐっと下げているから、この辺りからきっと「下げ相場」なんだろうな。そうだ、きっとそうだ。。。でも、迷う。』と迷いながら、1月末になってようやく決心し、まぁ丁度ぐぐぐっと値を戻してきていたのでこれ幸いとばかりに一つずつ売りました。
(終わり)

Feb 12, 2006

相場のハナシ (弐)

 俺の近くにも下手くそがいますが(身内なので遠慮なしですが)、出来もしないのに上げ相場の中でも押しが入るとその押しの小さなうねりまで取ろうとしています。当然ながら上手くいくわけがないので、四日下げて六日で戻したとすると、二週間経過したその時には手数料を払ってまで利益を減らしたというのがお決まりです(「減らした」だけならいい方です)。まさに底から天井まで、小さなうねりまで、全て取らないと気がすまないのです。
 ここんとこもう少し丁寧に説明すると、上げ相場で日々株価が上がってきているさなか、押し目が入ったとわかるのは、早くても一日下げてからです。しかもその一日のみで、それが後数日は続く押し目だと判断するのはかなり難しく、できるときは大抵しっかり押した時です。しかしそれでも、上げ相場だとふんでやっているのに、たった一日の下げで持ち株を売り払うのは相当難しいことです。もし(偶然にも)一日の下げから押し目だと判断し、さらに勇気までふりしぼって二日目に売れたとしても、次は一体いつ買いなおすのでしょう。翌日?その次?これまた押し目が何日で終わるかをピタリ「当てる」のは相当難しいです。もしもし、四日で終わると「閃いて」五日目に買いなおせたとしましょう。ではその時点で、往復分の手数料も引いて、売り払う前と比べ一体いくら程の利益が増えたというのか。これやってみたらわかりますが、上手くできても、これから取ろうとしている大きなうねりからすると、物凄く少ないです。ましてや、売りと買い2回もピタリと売買しなければならないのですよ!間違いなくリターンよりリスクの方が大きいです。疲れるだけ損ですから、止めましょう。その間一本でも映画観たほうが人生有益です。

 これはおそらくチャートの功罪ではないかと思います。相場をやる者だれしもチャートを見れば天と底に目がいくものです。妄想もします。「テッペンのココで売って、タニゾコのココで買えればなぁ」ポワ~ンと。これはしょうがない。しかしそれは過去のことであるということを忘れてはいけません。その時はそこが底だとはわからなかったのです。書いててあほらしくなりますが、そうなんです。競馬をやる人よりも、相場をやる人の方がここんところの勘違いが激しい気がします。底で買えた人は、底だとわかって買ったわけではなく、買ったらたまたま底だったのです。そんなことは狙ってできることではなく、「何度も何度も狙ってやってみたら当たることもある」、その程度です。そんなことではコンスタントな利益は到底望めません。またもう一つ重要なのは、上手くなれば天井で売って底で買えるのかというと、そういうことも絶対ありません。そりゃ、底として値がついている以上、誰かがそこで買っているのですが、別にそれは上手い人でもなければ、いつも同じ人でもありません。
 ここで断っておきますが、俺がこういうことを思わないわけではありません。思います、物凄く。でも、いやいや!と自制しているだけです。俺が不等分割ではなく等分割でやっているのも、まだこの天・底を「当てよう」という意識を払拭し切れていないからだと思います。

 実現可能性のないことを目指して努力してもしょうがないのです。

 コンピュータの専門化が、膨大な統計をとったことがある。天井の一点(いちばん高値)を捉えられる統計的確率は、1/15,000,000だそうである。 (林輝太郎 「株式上達セミナー」 同友館)

 というわけで、単純に天・底どちらも当たる確率は、1/225,000,000,000,000 (あってる?)なので、こりゃもう「得べかりし」利益ですらないのです。
(続く)

Feb 11, 2006

相場のハナシ (壱)

 割と真剣に、相場をやります。モットーもポリシーもルールもあります。でもあえて他人に語るようなことはありませんでした。というのも、俺の相場はただ林先生の本を読んで、理解し、実行しているだけですから、俺の言葉より林先生の本を読んでもらった方がずっと「正しい」と思うからです。
 そう思っていたので、「株おせぇて」と言われても、真面目にやりたいと思っている人にほど「林輝太郎という人の本を読めば」と言ってきました。でも、どうやら人によっては林先生の本はかなり読みにくいらしく(そう、思う)、また少しは俺自身の言葉で語れることもできたかと思うので、ここで少しばかり書いてみます。まずは、少し長いですが、次の文章を読んでみて下さい。(ちなみに、この引用も読みやすいようにと少々なおしてあります。そして、これは林先生の文章の中でもまだ読みやすい方です(-.-; )

 「今の動きはうねりの底をつけつつある、と判断して分割して5000株買った」とする。幸い見込みどおりに上げてきた。
 三ヶ月で、狙いすまして売った。だが、そのあとも上げ続けた。「しまった」と下級の投資家は言う。大成功なのになぜしまったと言うのか不思議でならない。
 今までは、何千万円という損をしたのだから、それは「しまった」なのであり、今回は十分に利益を得られたのだから、こんなよいことはないのにどうしてしまったと言うのか。それは得べかりし利益を逃したこと、と、もうこれ以上は上がらないと判断したのが誤りであった、ということをしまった、と言っているに違いない。
 底から天井まで取らないと気がすまないのだろう。しかし、上の例でも、分割で5000株買ったのだから、大底値(大底の一点)で買ったわけではない。なぜ、そのときは「しまった」と言わなかったのだろう。
 また、たとえば、
   三ヶ月で300円幅上がった
 その三ヶ月で300円幅のうち、株を持ったのは一ヶ月半だけ、そして利益は150円幅だったら、もう天にも昇るくらい喜ぶべきことなのに、売ってから少しでも高値があると「しまった」と言う、その「しまった」を言わないようにならなければ絶対に株式投資で成功する投資家にはなれない

 一ヶ月半で150円幅取れたが、あと上がったら、
 「よかった、よかった。しかし、天まで上がることはないだろう。
  これからどこで天井になるか見極めよう」
と、上げの勢いが弱まってくるのを待つ心の余裕があってこそ、下げを取れるはずである。
 (林輝太郎 「うねり取り入門」 同友館)

 むろん向上心を否定するわけではありませんが、実現可能性のない夢を真剣に語ることほど虚しいものはないのです。特に、目的はただ一点「金を儲けること」につきる相場に関しては。
(続く)

Jan 26, 2006

シャンパンの用途

「実はシャンパンがあるんだよ」と彼は真剣な顔つきで言った。「フランスから持って帰ってきた上物なんだけど、飲まないか?」
「どこかの女の子用なんだろ?」
 彼は冷えたシャンパンの瓶と新しいグラスをふたつテーブルの上に置いた。
「知らないのかい?」と彼は言った。「シャンパンには用途なんてない。栓を抜くべき時があるだけさ」
「なるほど」
 僕たちは栓を抜いた。
村上春樹 「ニューヨーク炭坑の悲劇」

 なるほど。
 久しぶりに名言だなと思った。そうかもしれない。実は我々が日常知らず知らずのうちに定義付けている「用途」などは、大人の思惑に 或いは歴史の雄弁さにガッチリ囲まれ唆されただけのものではないか。本当はそんなものはなく、あるのはその物を使うべき「時」のみなのだ。抗うことのでき ない時の流れの中で、しかるべき際に用いることこそが物を使うことの唯一の意味であり、時宜にかなった使用結果をもって初めて用途と呼ばれる例示が可能と なるだけにすぎない。これを順を逆にして、あてがわれた用途に則って物を使うに止まるのであっては、奴隷丸出しである。

 物がそこにある。その物をしかるべき時に使用するのだ。腐心するのは使い方ではなく、使う時でありその捉え方である。
 用途などといった取って付けた概念などはどうでもよく、有形のものとして物がそこにあるのである。それは手で触れ目で見ることができるものなのである。今そこに実在するその物を、いつ使うのか、そればかりをヾ(℃゜)ハテサテと思い悩むのもまた悪くないような気がする。

  確かに現実には隷従することもあるし、奴隷をやっている時間の方が長かったりもする。なにしろ「現実」であるから。しかし、己の精神くらい自由であったっ ていいじゃないか。一人で部屋にいるときくらい、ハサミの持ち手の大小の穴から、過去と未来をのぞき見たっていいじゃないか。

Jan 3, 2006

愛情測定基準

 今年一発目は、世にも役立つ「人の愛情を測るための基準」を大胆にも提案してみようかと思います。

 さて、誰しも自分が愛されている か、さらには自分が誰かをちゃんと愛せているかを気にしたことがおありでしょう。でも「オトナ」になればなるほど、正面きって「あほ、おまえなんか嫌い じゃ」とか「ああ、オードリー愛しているよ」とは残念ながら言わなくなってしまうものです。そこで、そんな面倒くさいオトナ達は「臭い」という基準をもっ てみたらいかがでしょうか。
 嗅覚というのは五感のうちでも、他のものに比していくぶん本能的であり、理性の介入が少ないのではと思われることか ら、人の発する臭いの好き嫌いをそのままその人に対する愛情の程度に置き換えてみてはどうだろうか、という荒っぽい発想です。根拠は弱いですがそれなりに 実用性はある、、はず。
 例えば、好きな女の臭いって、あんなのもこんなのもokじゃないですか。他にも、親しい友人が腋臭だったとしても、臭 せぇ!!けどなんとなく一緒に車に乗ってられますよね。でももし、全くの他人が同じように臭かったら、それはナシでしょ。ポイントは「臭いもんは臭い」で す。恋人でも友達でも臭いもんは臭い。好きだからって臭いもんが臭くなくなる訳はなく、やっぱり臭い。「けど」ですよ。臭いけど受け入れられる、なんかこ の感じが「愛情」てものに近いのかなぁと思うのです。(□いものを□いままでという話なので、□いものが○くという倒錯された嗜好をお持ちの方の場合は、 またちょっと話が別ということで。。。)
 上記のような判りやすい場合には、何も「おら基準だ」といってわざわざ持ち出す必要もないのですが、 やっぱり人間関係いろいろビミョ〜なものが多いですから。だから、少ないとは思いますが、自分の女でもシャワーを浴びてからしか抱かないってのはやっぱ ちゃうんやろう。出がけに彼女から「あんたシャワー浴びていきよ」と言われてまうのも、なんとなく悲しいものがある。う〜ん。部屋に散らかった自分の靴下 を菜箸でつままれた日にゃもう駄目だろう。よく一緒に昼飯を食う職場の同僚が、風呂に入ってなく臭かった時に、「おまえ今日はえっらいくさいなぁ」と笑い ながら言わずに、それとなく一緒に食うの止めてまうしまうのでは、そいつとは友達ではないのだろう。もっと具体的に言えば、一緒に食うにしてもいつもより 気持ち離れて座ったりすると、その微妙な距離が微妙な「情」を表象しているということか。とまぁ、考察は尽きないので、皆さんでいろいろ挙げてみて下さ い。
 ちなみに、これは自分に対する愛情についてもなかなか有用です。シャワーを浴びずには、もしくは、これでもかと香水をふらずには決して人前 に出られない、という方などはちょっと心配です。度が過ぎると、ファッションやマナー、健全な羞恥心を超えて自己嫌悪むき出しです。どうかご自愛下さい。

 以上、そもそもの発想が荒っぽかったり、「臭い」だってかなり抽象的で基準たり得ないとも言えますが、それでも「愛情」よりかは十分具体的だと思うので、まぁ参考程度に意識してみてはいかがでしょうか。おわり。