Oct 28, 2009

1Q84

 誰かに順番抜かしされた形跡もなく、予定通り図書館の順番が回ってきたので、三日ほどかけて読んでみました。はい、一生懸命読んでみました。読んではみたのですがぁ、、、正直言うと、
「よくわからなかった。」
もちろん書いてあるのは日本語ですし、よく馴染んだ村上さんの文章でとても読みやすく、登場人物達の存在感は抜群で、その個性たるも幾人かは魅力的すぎて僕を現実から引き込みすぎて怖くなるほどでした。間違いなく最上のエンターテイメント体験でした。しかし、それ以上には、情け無いことに、今の僕では理解できなかった。より明け透けに言うなら、
「感動できなかった。」
よって、今の僕は日曜日の朝刊にあるような書評らしきものすら書くに値しない。

 全体を貫くテーマが壮大すぎるのか、それとも何か僕は知らないけど世間にはよく知られた主要なものなのか、わからなかった。
 表現方法に関しては、基本的にとっても村上さんぽい構成だし文章だったと思う。けど、明らかにこれまでよりも性的表現は多く、かなり具体的なものもたくさんあった。それら個々の表現の意味は、各部分としてはよくわかる使われ方に思えた。もちろん演出として不快に感じることはなかったし「美しい」シーンもたくさんあった。しかし、全体としてはやはりテーマそのものも掴みきれないでいたので、それら多くの性的表現の占める意味も曖昧にならざるを得なかった。
 そんな状況を見越してか、作中に僕のような飲み込みの悪い大人のために載せておいてくれたかのような「解説」がありました。そうそう、まさにこういう感じ。
物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
 10月は個人的にちょっと忙しく再読している暇もありませんでした。一年ぐらいしたらもう一度、僕なりに解読を進めたくちゃくちゃの紙切れを片手に森の中へと入ってみようと思ってます。
 ただひとつ、最後までパッとしない僕を温めてくれたのは、まさに物語も終盤、ハッピーエンド(少なくとも僕にはそう思えた)に向けて進んでいこうとする、とてもとても大きな力強い意思でした。

Oct 24, 2009

パッとしない

 梅田までTOEFLを受けに行った帰り、新快速の中で考えてました。

 あぁ~、30年も生きてきたというのに、俺の人生とは何ともパッとしないなぁ。ひょっとして俺にはパッとしない人生を送る才能があるのではないか。そうそう、こうやって、
パッとしない
我が人生に
思い巡らす
パッとしなさよ
なんだそりゃ。
 次は、ものの順序に従って、では「パッとする人生」とはどんな人生かについて考えてみた。考えてみて。考えてみた。パッとしない僕としては、パッとする人生とは、お正月前に部屋の蛍光灯を新しく替えてパッとしている一コマを切り取った写真のようなものしか思い付かなかった。「パッ」とするという言葉通り、それはある瞬間のことを指すのだろうから、そんなパッとする人生でよければこんな僕の人生だってパッとしたものさ。
 ふむ、こりゃ何だか変だ。パッとしない人生の打開策としてパッとする人生について考えてみても、そんなところに救いはなさそうだ。これはあれか、「下らない奴」を改めようと「下る」ことばかり考えていてもどこか変なところへたどり着いてしまうのと同じか。そうだとすると、今考えるべきは「パッとしないなんてことはない」人生か。

 パッとしないなんてことはない人生

これはなんだか、パッとしない今日の僕には十分な救いとなる考えのようだ。

Oct 1, 2009

車が遠慮して通ればいい

 鞆の浦埋め立て差し止め判決後の宮崎駿さんのコメントがよかった。
不便を忍んで生きるんですよ
不便だから愛着もわくというのが人間の心だから
便利はうるさいですよ
 とりあえず皆、幸せになりたい、と望んでいると仮定すると、あとはその時時の幸せ総量をいかに極大化するかですが、今日の日本では

 便利→→幸せ

と本気で思う人は間違いなく少数派でしょう。そういう時代は終わりつつある、ではなくて、終わって久しいと思う。しばらく経つというのに、未だ次の幸せイメージを社会全体で共有できないでいるから、今の時代は生きにくいと言われるのだと思う。自由・多様化というキーワードが象徴する今の時代に、共通の幸せなど描ききれないとも言えそうだ。確かに、現代版「巨人、大鵬、卵焼き」は描けそうにないし、「テレビ、洗濯機、冷蔵庫」に代わる今どき三種の神器を無理矢理提案しても、それは間違いなく豊かさの象徴ではなく皮肉の対象にしかならないだろう。しかしそれは、同じように具体的なイメージを描こうとするからであって、多様化した時代にも適う抽象的な幸せイメージを皆で共有することは可能だと思う。例えば、

 環境に優しく生きる
  ↓
 かっこいい
  ↓
 幸せ

こういうロジックは十分にあり得ると思う。ヒトであることに傲らず地球上の動植物と共生を図る生き方はかっこいいでしょ。あとは、あんまりたくさんの犠牲、不便を被らずに実現する術を考えていけばいいだけだ。渋滞の解決?それは、
車が遠慮して通ればいいことで、